自由に、贅沢に生きるためには。

『暇と退屈の倫理学』 著者 國分功一郎 

 

久々に、何度も読み直した本でした。

感想↓

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

 

 1冊の本を読む。そしてもう一度読む。2回目のときは、紙にメモを書き落としながら。

 その作業を得て、今このようにキーボードで文字を打ち込んでいる。これらの作業は、大学のときに英文学の教授から授かったギフトだと思っている。教授に出会うまで、本を2回も読んだり、ましてやノートやパソコンでまとめたり、などしたことがなかった。

 大学のゼミで隣の女学生が、本のレポートを発表した。教授が「読んでいない」ことを指摘した。おそらく彼女は読んでいたけど、文字を目でおっただけで、レポートは本の内容を連ねただけのものであった。教授は、内容について彼女にいくつかの質問をした。

一見、教授とその学生は対話しているようにみえた。学生は言葉をつまらせていたが、教授は穏やかな言葉で、彼女に内容を尋ねていた。

気づくと、彼女は泣いていた。その時は、わからなかったが、今ならわかる。教授はその学生をものすごく叱っていた。

 

なぜ叱ったのか。この『暇と退屈の倫理学の本』の言葉を借りると、彼女は本を「消費」しただけで、本を「浪費」しなかった。消費と浪費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前にでてきた物を受け取っているのではない。(172)「消費」は対象が記号や観念であるのにたいし、「浪費」はモノ(人や食事などもふくめた)である。消費ゲームのなかに生きてしまうと、贅沢ができず豊かな生活からどんどん遠ざかっていく。

 彼女は、「本を読んだ」という記号を消費しただけであった。教授が望んでいたことは、その本をじっくり読み、著者と対話し、分からないことと向き合い、「思考すること」であった。

 彼女が、本を浪費しなかったのは、この本の言葉を借りると2つ理由があったように考えられる。1つは「奴隷」になっていたから。バイト等で時間が作れず余裕ができなかったからかもしれない。もう1つはその本にかかれていることが、彼女の環世界とは全く違う環世界であり、思考することから却いたから。自分の慣れた言葉や環境の枠外である世界に触れたとき、人間は一時停止し、困惑する。そしてその新しいものを習慣化するため(自分の環世界を再構築するため)、思考する。今までお母さんとずっと一緒だったのに初めて幼稚園に通う子どもを想像してもらいたい。人間は考えないですむために生活しているのだから、新しい環世界と遭遇したときは、それが不法侵入しないかぎり、却くことができる。

 「有名人がいったあの店」、「個性的な~」、「毎日12時間労働のわざとらしい忙しさ」これらはそのモノや経験を記号として消費しているだけである。終わりがない消費ゲームの記号となる。それよりも、今目の前に出された食事を匂いや味で楽しみ、母からもらったネックレスを慈しみ、労働時間ではなくどのように仕事と向き合っているかを考える、そのためには、労働や何かの奴隷になっていたり、もはや気晴らしさえ効かないほどの退屈を感じていると、そういった浪費ができず、人間らしく生きていくことができない。退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生である。(410)

 

 この本を読みながら、何回も前ページにもどったり、メモを書いては、もんもんと考え、考えるのが嫌になって、散歩し、また向き合って、やっとパソコンに打ち込んでは、消し、打ち込んでは消し、の繰り返しをしている。時間に余裕があるからできる。なるほど、私は、暇人であり、思考することから却くのは気持ちがよくないことを教授によって植え付けられた。

 不法侵入してくる環世界は本だけではない、それは仕事、旅行、日々のなにげない生活にもあふれている。その環世界を「待ち構える」姿勢をこれからももっていたいし、大切な人にもそうであってほしい。そうあってほしいためにまた思考する。