「見る」ということ
非常勤で講師をさせていただいている専門学校でのお話。
まもなく卒業される生徒の最終課題を
『ホースマンシップ』著:持田裕之の本p26~29の
「コミュニケーションを図る上での考え方」の部分の読書レポートにしました。
自身の経験を踏まえた上で書いていただいたのですが、
どのレポートもとても「リアル」でした。
何かを読んだり、見たり、聴いたり、どこかへ行ったり、したときに
自身の経験とリンクさせ、実際に表現するときに
初めてそれを「経験した」と言えるのではないでしょうか。
強い文章、柔らかい文章、とげとげした文章、どれも
生徒一人ひとりの現時点での「自分」を表現されていました。
そして、こんなに真剣に書いてくれているのに
わたしも書かないわけにはいかないと思い、
生徒たちにレポートを返すときに、自分のレポートも添えました。
「コミュニケーションを図る上での考え方」を読んだ
レポートを、こちらにも載せようと思います。
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「コミュニケーションを図る上での考え方」の章を読んで、違う視点を持つためには「見る」・「観察」することが大事だと考えます。
ここでは、「多くに疑問を持ち、違う視点で物事を捉える」必要性があると述べられていますが、どうしたら「疑問」をもてるのでしょうか。それは、自分の視点を一旦脇に置き、相手(人や馬)の視点にたってみるということだと考えます。
馬を始めたばかりのころ。そのときの上司に「馬好きは変わってる人が多いよ、だって。馬が好きなのに蹴る(ここでの蹴るは合図の脚扶助のこと)でしょ?おかしいじゃない。」と言われたことがあります。また、同僚が「馬に拍車を当てたり、蹴ったりするのは、馬がかわいそう」という理由で馬業界を辞めました。それらの状況は、私を非常にもやもやさせました。まだ馬を始めて3か月あまりの自分は、言われたとおりのことだけをやり、「こういうものだから」というインストラクターの言葉に甘えていました。
しかし、ホースマンシップを学び、上司や同僚たちの考えはただのエゴであり、自己完結だと気づきました。彼らは、全く馬目線で物事を考えていなかったのです。自分の「いいと思う」ことを振りかざしていただけでした。馬は「安全と快適」を好むという基本的な欲求があることを理解し、それには「不快」を与えなければ伝わらない(負の強化という条件付け)ということを知っていれば、彼彼女たちの考えが少しは変わったかもしれません。
ホースマンシップは、馬の性質を理解して、それをコミュニケーションツールにしています。野生馬の集団の行動形態を「観察」し、「馬たちはこういう考え方をもっているのだ」という思考から、実践に移しています。この思考は、人に対しても同じだと考えます。ある会社に入ったら、まず言われたことをやりながら、上司や先輩の仕事の仕方を「見る」ことから始め、「なるほど、この人はこういう考え方をしているのだな」と感じ、彼彼女らの考え方から、自分の仕事ぶりはどう見えているのかという視点に立ってみます。そこからコミュニケーションが始まるのだと思います。人は馬と違って言葉をつかえますから、話してコミュニケーションをとることも可能です。しかし、言うは易し、、で、その人の行動からのほうが、その人の考え方を感じることができると思います。
今、私は、「伝える」ということが仕事の主になっていますが、伝える前に「見る」ことを意識しています。実際に、「見られていない」ということがどれほど悲しく辛いことかは、ここでは書ききれないぐらい経験しています。「見られていない」ことはつまり「自分のことを理解してくれていない」ということ、そして理解してくれいていない相手から、何かを注意されたり、褒められたりしても、人も馬も何も感じないのではないかと考えます。そして、人は他者や馬とのコミュニケーションをとった分だけの様々な視点から自分で自分を「見る」ことができ、自分を理解していくことに繋がっていくのだと思います。
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それでは、今から彼らの修了式ですので
しっかりと「見」届たいと思います。