自然、動物、人間との接し方(鈴木理策さんの写真展から)

知り合いが薦めてくれた鈴木理策さんの展示会にいってきました。

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展示会場で、写真たちをみながら

「木を見て森を見ず」の言葉がすっとでてきて。

いや、ちがうと。
理策さんの作品は
「これ見て、木なのか森の中なのかは、さておいて」
って、私のなかで、だいぶ違う言葉になっちゃいました。



【分かりやすさを省くと】


この展示会では「これは○○です」というような、無意識に把握したいと思っていることをすっぽかして、いきなりよく分からない物を見せつけられた感覚になりました。よく分からないといっても、どこかで見たことがあるかもしれないもの。だから、ちょっとそわそわして写真を眺める状態になりました。


私は、写真をみるとき、「何故これを撮ろうと思ったのか」ということを考えてしまいます。おそらくですが、理策さんは、山だよ!木だよ!人だよ!みたいな分かりやいものを撮る以外のことをしていて、だから、見る側は一旦立ち止まってしまう。ただ、そのあとに、鳥肌がたつような景色の中に自分が入っていく。




たとえば、こちらの写真。

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まず、この被写体のサイズがわかりませんでした。植物にお詳しい方はすぐ分かるのかもしれませんが、この植物は一見、木なのかなと思ってしまうのですが、よく見ると地面の雰囲気から木ではなく、もっと小さいサイズのものだと感じます。でも、人の腰までの高さなのか、膝までの高さなのか、さっぱりなのです。もしかしたら木かもしれない。笑

見ていると、だんだん自分の身体の大きさが分からなくなってくるような感覚に陥りました。

ここに分かりやすく、人の靴が写っていたりすると、ここまで考えれないのです。「分かりやすさ」を省いた写真。



でも「分かりやすさ」って、今まで生きてきたなかで経験して知っているものとか、現物は見たことなくてもテレビやネットで知ってる情報であったり、それらが言葉になって自分の頭に保存されてるものとリンクするものですよね。でも分かりやすさをもとめると、だんだん見るものが自分の知っている言葉とリンクするものしか目に入ってこなくなってくる。だってそのほうが楽ですし安心ですもんね。

たとえば、ヒマワリがたくさん咲いているところにいって(「ヒマワリ畑」なんて名前がついてたら余計にですが笑)、すぐヒマワリを見ますよね。ヒマワリの横に生えている草や小さい花や土をわざわざ見ません。ヒマワリに吹きつける風も見ませんし、ヒマワリの花弁のシワも見ません。今まで経験して知っている「ヒマワリ」と結びつけて見ているだけなんですね。

もしも、
はいっと言って渡された写真にヒマワリの花弁ひとつをアップで撮られていてあとは全部ぼかされていたら。。
「きれいなヒマワリ!」ってなりませんね。
「ん?」ってなる。
そのつぎに「これは、なに?」。
この花の名前をを探すけど、写真を渡してくれた人は教えてくれない。


だから、「なにか」を当てはめる作業を諦めて、「見る」。


すると、目の前には花弁の細かい筋であったり、昨夜の雨が降ったのだろうか潤んで、太陽の光が右から入っていて、と、そのままを「見る」。

あぁ、となるわけです。
ヒマワリと分かりやすく見たときとは、違う景色が見えるんですよね。しかも時間も見てえくる。




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【自然や人間と接するときの姿勢のよう】


自然なもの、動物、人間、
こういうものと接するときって、「分かりやすさ」を省いて見ないと、新しいものに出会えないのかなって。

分かりやすくいうと(笑)、偏見をもって人を見るなとかよく言われますよね。それって自らのちっぽけな知識や言葉でしか相手を表現できないってことだからかなと。これは、とっても失礼なことですよね。

ずかずかと土足で人のことをどうやこうや言う人、真剣に向き合ってもないのに、その人や事を分かったように語る人。そういう人に限って攻撃したり、憤慨してるんですよね。日本人は特にそうなのかな。



【深く関わらないものに対して評価しない】

スペインに滞在したとき、すごく感じたことがあります。彼らは自分の価値観を人に押し付けないし、良い悪いの判断をしません。最初、みんながめちゃくちゃ自己中心的な人だなと感じたのですが、それは私が周りを気にしすぎてたからでした。
わたしのペースでも受け入れてくれるし、人のペースも気にしなくて良いって分かってからすっごく気持ちよく動けました。


たとえば、友達が迎えにきてくれるのが朝10時の約束だったんですが、夜の7時にきたときがありました。
でもホストの人は、あぁ、その人はルーズな人だしちょっと仕事残ってたんじゃない?って言ったんですね。わたしは、「最低な人!」って一緒に怒ってくれるのかと思ったら「待ってる間、読書したりワイン飲んだり楽しめるじゃない」って。

全員が全員そうじゃないと思いますが、こういった方が多かったです。その人はそういう人、=悪い人、と善悪の判はしないんですよね。


日本で生活していると、言葉尻だけ捕まえて怒ってる人がいました。言葉尻だけひろって、勘違いして、勝手に怒っている人。勘違いされたことが辛いのもありますけど、なぜ何も知らないのにそこまで怒れるんだろうと。
怒ってるときってその人の人間性もろに出ますし、そう言う人にかぎって差別的な発言すごいです。 
私個人としましては、性格差の勉強をしていたので、「女は、、」とかいう語り口で喋られると胸くそ悪すぎマックスでございます。
そういう人とは表面的に関わればいいだけなのですが、傷ついて病んでいく人は周りに沢山います。

これって人間だけじゃなくて、動物も自然も当てはめれることです。勝手に押し付けられると、傷ついて病むんです、動物も自然も。たぶん。



【まず、感じて】

自然なものと関わるときは、理策さんにならって、
「分かりやすさ」を、つまり、自分の言葉をいったん脇において、見て感じて、必要とあらばコミュニケーションをとって、租借して、また紡いでいけばいいのかな、と。


深く関わるときは、必死に勉強して、アプローチをして、返ってきた反応でまた学んで、ときに思いをぶちまけて、泣いて、また自分と向き合って、自分と相手の距離をはかって、分かり合えたかなと思って嬉しくて、でも少しズレてて。

それの繰り返し。


分かりづらいな、読んでくださってありがとうございます。


鈴木理策さんのホームページ↓
http://www.risakusuzuki.com/ja/

「海と山のあいだ 目と心」展示会
鈴木理策さん

感想でした。ちゃん。