「私ははじめて、世界の無関心に、心をひらいた」
カミュの小説、『異邦人』の好きな一文です。
20歳のとき、この一文を読んで、涙したのを覚えています。
理由はこれ、といったことを明確に説明できませんが、
ただ、そのときは性差別問題や、
こうあるべきという社会の静かな抑圧に対して
いろいろ考えていた時期でした。
そのときの自分のもやもやと、この一文がリンクし、かなりの衝撃だったんだと思います。
社会の、これはこういうものという枠組みから外れてしまう、外れてしまうというか、枠組みに入っているように振る舞えない人は、社会で生きていくことを剥奪されてしまう、そんな印象の本でした。
↓この本からの超個人的な感想(読む度に代わっていきますが)
人間それぞれ身体をもって感覚も感情も微妙に違います。
しかし社会を成り立たせるために、同じ共通の言葉を使って「同じ」感情や感覚をもったように振る舞います。
社会が成り立つからそれはそれでいい。
だけどその社会や常識とよばれるものと違う行動や発言をして逸脱したもの対し(もともとみんな違うのだから逸脱もくそもないんだけど。)、人はあまりに冷酷で残酷に扱う。この本ではそのような人を「非人間的」とし、「死刑」という形で消されてしまう。
その「非人間的」な主人公がムルソーです。彼は母親が死んだときに涙を流さなかったり、その翌日に女と海で泳ぎ、喜劇映画を見ます。ムルソーは世間一般の人が抱く感情などは分かっていますが、それに合わせようとしません。なので周りからは怪訝に思われ、殺人をおかしたときも「太陽のせいだ」といい、最終的には裁判で死刑を宣告されます。
世間から切り離されていくもう一つの理由にに社会生活への「無意味化」もあげられます。
ムルソーは、「なんの意味がある」、「無意味だ」、「意味のないこと」等、ことあるごとに「意味はない」という言葉をたくさん使います。
世間と同じように意味をもとめず、同じような感情をもたないムルソーをみていると「人間の基準」ってなに、と問いただされるような感覚になります。
そしてその世間に合わせないよう意固地になっているようにもみえるムルソーは、極刑を言い渡され、独房のなかで夜空をみながら、自分とは完全に切り離された世界を想い、その世界の自分への無関心に心をひらくのです。
自分が社会に入っていようが、入っていまいが、この世をさろうとしていようが、世界はかわらず無関心でいてくれるのです。
ムルソーは神を否定しますが、ムルソーにとっては「無関心」こそが神に代わるものに思えます。
そんな寂しい人生、、って思ってしまう人は、じゃああなたは何に安らぎや喜びを感じているのか、
と、ムルソーを通して自分の生きざまを考えなおさせられます。
うわーーーーー
文章ぐちゃぐちゃ、ごめんなさい。
あでぃおす。